# #
#
ホームに戻る
#
がんばってます 報道記事/レポート 私の原点 事務所からお知らせ 法律相談日、マップ リンク先 お問い合せ先
#
私の原点
法律相談や生活相談
大阪府議会
日本共産党大阪府会議員団
日本共産党高槻市会議員団
#
日本共産党中央委員会
 
#

タイトル/私の原点 –貧困がくり返されない政治を–


 貧困は人間を卑屈にする
  ―それでも現在よりは良かった少年時代―

中1・中2の頃、中学校に通う時は、下を向いて歩いていた。よその人が話をしていると、自分や母(の借金)のことが言われているように思った。
 島は小さい世界である。人情も深いが、他人のことが、話の種になる悪い面もある。
 私は動物園に行ったのは、大学入学の後である。中学生の時、徳山市(現在の周南市)に動物園があり、母の弟(おじさん)が私の枕元まで来て、「動物園に行こう」と誘ってくれたが、ふとんを頭までかぶって「行きたくない」と断わったこともある。ズボンに穴があいているのが、恥ずかしかったのである。
 救いは、「高校に行くように」と励ましてくれた先生や、同じ母子家庭の同級生であった。彼は中3の時は、自転車で家に来て、後部座席に私を乗せて中学校まで一緒に通ってくれた。しかし、当時は「中卒は金のたまご」と言われ、中卒でも立派に暮らしができた。いじめも今より少ない温かい時代でもあった。大卒でも仕事に困る今の格差社会は最悪だ。


「世の中の役に立ちんさい」
  ―出稼ぎで、大学に行かせた母のこと―①

実家の山口県上関町で母が商売を始めたのは、以前にふれた。しかし、高度成長で島の人口は減り、特別の商才もない母は、借金をかかえ、新築の家を4年で、弟夫婦にゆずり、祖父、母、私の3人が、風呂の無い家に住んだ。島の子で高校に行く子は少なかった。借金で迷惑をかけている母の子の私が「本土の高校に行く(島にも4年制の定時制はあり)なんて」親戚の中の猛反対で、母と私は孤立した。

母は私の高校入学後、広島市の旅館に仲居さんとして努め(その後、電機会社の寮、箕面市や南森町でまかない)、2ヵ月に1回は仕送りをして、私が大学卒業後、4年で亡くなった。結局、一緒に住むことは無かった。卒業直前に母を演劇に京都へ連れて行ったのがたった一つの親孝行である。


「お母さん、新聞来た?」
  ―昼休み、走って家に帰っていました―

父が5才で亡くなり、母は自分の実家がある、山口県上関町の長島(他に八島、祝島という島がある)で、雑貨店を開き、生計を立てていました。小学校は子どもの足で10分から15分ぐらいだったと思います。

 当時は、本土(室津)にかかる橋もなく(車もプロパンガスを運ぶ小型1台)、新聞は9時を過ぎてから家に来るのです。

 私は、新聞を読むのが好きで、小学校4年頃からは、昼の給食がすむと、走って家に帰り、新聞を一通り読んで(20分~30分でしょうか)から、また小学校に戻っていました。

 時々、先生が「宮原君、今日は何が書いてあった?」と聞いてく、母は近所の人に「この子は新聞を読みに、家に帰ってくる」と自慢していました。

 社会でどんな事がおこっているか、知りたかったのです。また、母や先生に、ほめてもらうのが嬉しかったのだと、今になって思います。


  吃音と私

船のイメージイラスト4日の代表質問のDVDができたので、昨夜はその一部を見た.相変わらず、吃音は完全には直っていない。私の吃音は、小学校に上がる少し前に、人の真似をしたのが始まりである。小学校や中学校の頃は、学芸会にほとんど出ることができなかったり、授業で手をあげて発言するのも、恥ずかしかった。

友達から馬鹿にされないように、一生懸命に勉強した。歌もできるだけ歌うようにした。歌うときは私の場合、吃音にならない。

高校・大学・社会人と少しづつ直ったが、今から21年前、平成元(1989)年、島本町の町長選挙に出るときには、ある友達から「吃音やから人前で演説できないのでは」といわれて、傷ついた事がある。

しかし私の場合、他人に自分の思いや意見を伝えることは、今は何の支障もない。
 吃音は恥ずかしいことではない。庶民の利益のために、選挙で選ばれた府議会議員として、実直に力をつくそうと思う。(2010年10月8日)


 「おかあさん、明日アイスクリームこうてね」

上関町写真1 上関町写真2 #
2012年8月撮影

三井三池の炭鉱で働いていた父が死亡し、母の実家の山口県上関町長島に母と二人で住むようになった5歳の頃の話しらしい。夏になると島にはアイスクリームを売りに来ていたのは覚えている。

私がある日「アイスクリームこうて」とねだった時、「明日、買うてあげる」と、母は答えた。次の日から私は、毎日、「おかあさん、明日アイスクリームこうてね」と言い続けたという。

見かねた近所のおばさんが、私にアイスクリームを買ってくれたそうだ。

 母はこの話しをする時、「ごめんね、あんたに苦労させて」とよく言った。

 しかし、一番つらかったのは、わが子にアイスクリームを買えなかった母だと思う。
 「ささやかでも、みんなが幸せに」、私が社会を良くしたいと思う原体験の一つである。


 

トップに戻る